最初に老師の存在を知ったのは20代の後半だったと思う。
その後、色んなできごとがあり、人生が嫌になった時、
毎日、救いを求める様に図書館に行った。
1日に3~4冊の本を読み漁り、哲学書から、宗教の本まで読み漁る時期が何年か続いた。

ある日、何気なく手にした、老師のタオの教えを読んだ時に、
今までの読んだ本が、頭の中で全て消されたくらい心に染み込んだ。

と言うより、こうありたいと思った。
単純に私好みの美しい教えであった。

しかし、本当の意味を理解してはいなかったかもしれない。
なぜなら、同じように迷い、同じように悩む事柄は変わらなかった。

「上善は水の如し」
「大器晩成」

の言葉も老師の言葉だ。

その中で、今でも、魂が震えた言葉が、

「その出ずること弥いは、遠ければ、その知ること弥いよ少ない」

すなわち、出かけて行くのが遠くなればなるほど、
知ることはますます、少なくなって行く。
真理に近づこうとして、どんどん遠くへ行けば行くほど知れることは少ない。

その時本当の言葉の意味は分からなかった。心に止める必要を感じた。

あれから、さらに時を経てみると、老師の言葉が前よりすんなり入ってくることに気づいた。
あの時の魂の震えた「教え」を記憶の引き出しから取り出した。

なるほど、自分の中を掘り下げ、内観することでしか相手を感じることはできない。
相手を知ろうと自分から離れ相手を観る。
できごとを観ると言うことは何も見えていない事かもしれない。

彼らの目を見えなくする事で彼らは見えなくなる
彼らの耳を塞ぐ事で彼らは聞かなくなる
彼らの口を塞ぐ事で彼らは話さなくなる
知性の働きを止める事で彼らは完全に単純さを取り戻す

生き生きとした魂を休ませ、
知性から離れる事で好き嫌いを持たなくなる
これは偉大な達成と呼ばれる。

これらの言葉も、今なら、ストンと入ってくる。
今、私は、ハウツー本や、専門書、哲学書、
人の成功したプロセスの本を読むことが無くなった。

小説や、童話、絵本、本は私の教科書から、娯楽へと変わった。

不思議に、頭の引き出から時折、取り出し、
今、本当の意味を理解するときだけ、もう一度読み直している。
老師の教えはハウツー、いや、哲学でもなく真理なのかもしれない。